私たちの腸内に住む数兆個もの細菌、ウイルス、真菌などの集まりであるマイクロバイオーム。彼らは単に消化を助けるだけでなく、生命の設計図からタンパク質を作り出すという、細胞の核心部分にまで影響を与えていることがわかってきました。シカゴ大学の研究チームは、2025年9月16日付の『Nature Cell Biology』誌に掲載された研究で、腸内細菌が産生する2つの小さな分子が、私たちの細胞内でタンパク質合成装置のコントロール権をめぐって「争奪戦」を繰り広げていることを突き止めました。この発見は、細菌が私たちの健康をいかに深く支配しているかを示す、驚くべき新事実です。
シカゴ大学の生化学・分子生物学教授であるタオ・パン博士(Tao Pan, PhD)は次のように述べています。「2つの細菌代謝物が、私たちの細胞内で翻訳(translation: translation)という根本的なプロセスを正反対の方法で書き換え、細胞の増殖を左右している様子を目の当たりにするのは、実に驚くべきことです」
微生物代謝物の重要な役割
私たちの細胞内では、転移RNA(tRNA: transfer RNA)と呼ばれる分子が、遺伝暗号を読み取ってタンパク質の材料となるアミノ酸を一つずつ運んでくる「翻訳者」として働いています。このtRNAは、より正確かつ効率的に機能するために、しばしば化学的な修飾を受けます。この修飾に不具合が生じると、がんや神経疾患などの病気を引き起こすことが知られています。
哺乳類細胞には約40種類のtRNA修飾が存在しますが、中でも最も複雑なのが「クエオシン(Q)」修飾です。実は、私たちの細胞はこのクエオシンを自ら作ることができず、腸内細菌や食事から供給されるクエイン(queuine)という分子に依存しています。このクエインを使って作られる「Q修飾tRNA(Q-tRNA)」は、細胞内のタンパク質製造工場であるリボソームが、遺伝情報をよりスムーズかつ正確に読み取るために不可欠な存在です。
一方、細菌がクエインを作る過程では、プレクエオシン1(preQ1: pre-queuosine 1)という中間物質が作られます。細菌が死ぬと、このpreQ1が腸内に放出されます。パン博士は、「Q-tRNA産生におけるクエインの役割はよく研究されてきましたが、哺乳類細胞におけるpreQ1の影響については、今回の研究までわかっていませんでした」と語ります。
プレクエオシン1(preQ1)がもたらす驚きの効果
パン博士の研究室は、マウスを用いた実験でpreQ1の役割を調査しました。その結果、preQ1がマウスの血漿や組織に存在することを確認し、さらに、培養皿上の細胞の増殖を劇的に抑制することを発見したのです。興味深いことに、この抑制効果はクエインを投与することで解消され、増殖は正常なレベルに戻りました。
研究チームはさらに一歩進み、腫瘍を持つマウスにpreQ1を注射しました。すると、preQ1は単に血液中を漂うだけでなく、組織にまで到達して「preQ1修飾tRNA」を作り出し、腫瘍の増殖を抑えることが確認されたのです。これは、preQ1が新しいがん治療薬の候補になる可能性を示唆しています。
「私たちが観察した中で最も強力な効果は、免疫応答を開始する重要な細胞である樹状細胞に見られました。ごく微量のpreQ1であっても、その増殖を完全に停止させたのです」とパン博士は説明します。
「タイミング」がすべてを左右する
腸内での細菌の入れ替わりにおいて、preQ1はすぐに利用可能になりますが、クエインが血液中に放出されるには追加の酵素反応が必要なため、少し時間がかかります。つまり、哺乳類細胞はまず「増殖を抑えるpreQ1」に出会い、その後に「増殖を促進するクエイン」に出会うことになります。この絶妙な時間差が、免疫細胞などの特定の細胞が免疫反応を微調整したり、組織のバランスを維持したりする準備に役立っている可能性があるのです。
また、チームはpreQ1が効果を及ぼす分子メカニズムも解明しました。細胞内に入ったpreQ1は、クエインと同じ「QTRT1/QTRT2」という酵素を奪い合います。しかし、preQ1によって修飾されたtRNAは不安定なため、細胞の品質管理酵素である「IRE1」によって欠陥品とみなされ、破壊されてしまいます。この分解プロセスが、細胞の増殖や代謝に不可欠な遺伝子の翻訳に影響を与えていると考えられます。
宿主と微生物の相互作用の意義
今回の研究は、細菌の代謝物が哺乳類のタンパク質合成を妨害して細胞分裂を遅らせたり、逆に増殖を促進したりする仕組みを明らかにしました。これは、細菌の化学反応が単に消化や免疫に影響を与えるだけでなく、細胞生物学の核心部分にまで入り込み、遺伝子の発現方法を調整していることを示しています。
「同じ経路から生まれた2つの微生物代謝物が、私たちの細胞を正反対の方向へ押し進めることができるのです」とパン博士は締めくくります。preQ1とクエインの相反する効果を利用すれば、食事やマイクロバイオームの構成を調整することで、がんにおける細胞増殖を制御したり、自己免疫疾患を予防したりする新しい道が開けるかもしれません。
この研究「Two Microbiome Metabolites Compete for tRNA Modification To Impact Mammalian Cell Proliferation and Translation Quality Control(2つのマイクロバイオーム代謝物がtRNA修飾をめぐって競合し、哺乳類細胞の増殖と翻訳の品質管理に影響を与える)」は、アメリカ国立衛生研究所(NIH)などの支援を受けて行われました。

