もしヒトの脳が、培養皿の中でも「時間の経過」を記憶できるとしたら——そんな驚くべき可能性を示す研究が発表されました。
米ハーバード大学の研究チームは、ヒト由来の脳オルガノイド(ミニ脳)を5年以上という異例の長期間にわたって培養し続けることに成功しました。そして、これらのミニ脳が、まるで体内時計を持つかのように、実際のヒトの脳の発達スケジュールに沿って成熟し続けることを明らかにしたのです。
『Nature』誌に掲載された論文「「Human brain organoids record the passage of time over multiple years in culture(ヒト脳オルガノイドは、数年にわたる培養の中で時間の経過を記録する)」」において、パオラ・アルロッタ(Paola Arlotta)博士らハーバード大学の研究チームは、この長期培養研究の成果を報告しました。
5年間で110個のオルガノイド、42万個以上の細胞を解析
研究チームは、既存の培養プロトコルを最適化し、神経活動を長期間支えられるよう培地の組成を工夫することで、興奮性ニューロンが長く生存できる環境を整えました。その上で、培養開始から15日〜6カ月までの既存データ(オルガノイド76個分)に加え、新たに6カ月〜5年間培養したオルガノイド34個分のデータを取得し、合計110個のオルガノイド・42万4,720個の細胞について1細胞RNAシーケンス(acronym: scRNA-seq)による解析を行いました。
実際のヒトの脳の発達データから抽出した成熟関連の遺伝子モジュールをオルガノイドのデータに照らし合わせたところ、培養期間が長くなるほど、胎児期から出生後・小児期に相当する段階へと、細胞が実際のヒト脳の発達順序に沿って成熟していくことが確認されました。出生後の脳に特徴的な遺伝子発現パターンは、培養開始から12カ月以降に現れ始めたといいます。
DNAメチル化からも見えた「体内時計」
研究チームはさらに、全ゲノムバイサルファイトシーケンス(acronym: WGBS)という手法を用いて、9つの培養時点でDNAメチル化のパターンを測定し、いわゆる「エピジェネティック時計」(Horvathクロックや大脳皮質特異的時計など、DNAメチル化パターンから生物学的年齢を推定する手法)を使って推定年齢を算出しました。その結果、推定年齢と実際の培養期間との相関係数は0.88〜0.90と非常に強く、誤差の中央値は7.25〜20.04カ月に収まりました。培養が進むにつれてゲノム全体のメチル化パターンは安定し、実際のヒトの脳の状態に近づいていったといいます。
「若い」前駆細胞と「古い」前駆細胞を混ぜてわかったこと
研究チームは、培養期間の異なるオルガノイド由来の細胞を組み合わせた「キメラオルガノイド」を作成する実験も行いました。その結果、長期間培養された「古い」神経前駆細胞は、通常であれば2カ月ほどかかる工程をわずか2週間程度で完了し、初期の発生段階を飛び越えて、より成熟した段階のニューロンを速やかに生み出すことが分かりました。これは、個々の細胞が培養されてきた時間の長さを、いわば「記憶」として保持していることを示す結果です。
意義と今後の展望
ヒトの脳が完全に発達するまでには20年近くを要しますが、動物モデルや死後の脳組織では、出生後の発達過程を詳しく調べることは困難でした。今回の成果は、脳オルガノイドが単なる簡易モデルではなく、細胞に内在する仕組みによって時間の経過を記録・反映しながら、実際のヒトの脳の発達を忠実に再現できることを示しています。この長期培養モデルは、自閉症や統合失調症といった神経発達障害、さらには加齢に伴う脳の変化を研究するための新たな基盤となることが期待されます。研究データは今後公開される予定で、疾患モデルの構築や薬剤スクリーニングへの応用も見込まれています。なお、培養1年以降はニューロンの活動レベルが低下する傾向も観察されており、血管様構造や層構造の再現など、モデルの改善に向けた課題も残されています。
