遺伝子変異は初期には有益、後に代償をもたらす可能性—ハンチントン病研究が示す新たな視点
ハンチントン病(Huntington’s disease, HD)は、運動機能の低下や認知機能の衰えを引き起こす重篤な脳疾患ですが、その原因となる遺伝子変異が初期の脳発達を促進し、人間の知能向上にも関与している可能性があることが明らかになりました。この発見は、ハンチントン病の遺伝子を持つ子どもや若年成人を対象に、10年以上にわたる脳画像解析や運動・認知・行動評価を含むデータを収集した研究から得られたものです。この研究によると、HDの遺伝子変異を持つ子どもは、変異を持たない子どもに比べて脳が大きく、IQも高いことが判明しました。「この発見は、遺伝子変異が初期の脳発達に有益な影響を与える一方で、その後の人生で負の影響へと転じることを示唆しています」と、アイオワ大学カーバー医科大学(University of Iowa Carver College of Medicine)精神医学教授であり本研究の責任著者であるペグ・ノポロス博士(Peg Nopoulos, MD)は述べています。本研究は、2024年8月8日にThe Annals of Neurology誌に掲載されました。論文タイトルは、「Mutant Huntingtin Drives Development of an Advantageous Brain Early in Life: Evidence in Support of Antagonistic Pleiotropy」(変異型ハンチンチンが初期の脳発達を促進する—拮抗的多面発現の証拠)です。
ハンチントン病治療法開発への影響
この発見は、HDの治療法開発に対しても重要な示唆を与えます。遺伝子の初期の働きが有益である場合、単に遺伝子を抑制するだけでは、その発達上の利益も失われる可能性があります。そのため、遺伝子の活動を患者の後半の人生でのみ抑制する治療法が、より効果的であると考えられます。
また、ノポロス博士は、HD遺伝子の持つ別の側面にも注目しています。
「私たちは、この遺伝子がIQを向上させる可能性がある点に非常に興味を持っています」と彼女は述べています。「これまでの研究では、IQに大きな影響を与える単一の遺伝子は特定されていませんでした。しかし、知能が遺伝的要因に影響されることは明らかです」。
HD遺伝子と初期の脳発達
ハンチントン病は、ハンチンチン(HTT)遺伝子の変異によって引き起こされます。この遺伝子が産生するハンチンチンタンパク質は、正常な発達に必要ですが、特定の領域の変異によって脳に深刻な影響を与えます。
この変異が影響するのは、グルタミンというアミノ酸の繰り返し配列です。繰り返し回数が多いほど、より大きく複雑な脳が形成される傾向があります。例えば、ウニや魚には繰り返しがなく、ネズミなどのげっ歯類では少数、霊長類ではさらに多くの繰り返しが見られます。そして、人間が最も多くの繰り返しを持っています。
通常、ほとんどの人は10~26回の繰り返しを持っています。しかし、40回以上の繰り返しがあると、ハンチントン病を発症します。この遺伝子の異常は出生前から存在しますが、症状が現れるのは中年期以降です。
アイオワ大学のノポロス博士の研究チームは、HTT遺伝子の拡張が疾患発症前の数十年間にわたり脳の発達にどのような影響を与えるのかを長年研究してきました。
「この変異が後に重篤な神経変性を引き起こすことはわかっていますが、同時に、発達に不可欠な遺伝子であることも事実です。驚いたことに、初期の脳発達にはむしろポジティブな影響を与えていました」とノポロス博士は語ります。「遺伝子の拡張を持つ子どもたちは、大脳の体積が大きく、IQも高いことが確認されました。」
遺伝子変異による初期の優位性とその後の影響
本研究では、ハンチントン病(HD)を発症する前の数十年間において、HD遺伝子の拡張を持つ子どもたちが認知、行動、運動能力において有意に高いスコアを示すことが明らかになりました。
具体的には、HD遺伝子の拡張を持つ子どもは、脳の大脳体積が大きく、皮質表面積や脳のしわ(脳回)の形成も増加していることが確認されました。しかし、この初期の優位性は時間とともに減少し、最終的には脳の機能および構造の劣化へとつながることが示されました。
この研究は、Kids-JHD研究(小児および若年成人のハンチントン病リスク群を対象とした唯一の縦断的研究)を通じて得られたデータを基にしています。本研究では、約200人の参加者を追跡調査し、HD遺伝子の影響を長期間にわたって分析しました。
「この結果は、遺伝子変異が初期の脳発達において有益である可能性を示しています。しかし、その後の人生ではこの利点が負担へと変わるのです。」とノポロス博士は述べています。
進化の視点:利益とコストのバランス
この意外な発見は、進化生物学の観点からも興味深いものです。HTT遺伝子のような遺伝子は、人類の脳の進化において「正の選択(positively selected)」を受けてきた可能性があります。この考え方は「拮抗的多面発現(antagonistic pleiotropy)」と呼ばれ、ある遺伝子が初期の発達段階では有益な効果をもたらすものの、後年には負の影響を及ぼすことを示しています。
また、この発見は、HD遺伝子が産生するタンパク質が単なる「有害な毒性タンパク質」ではないという考えを裏付けるものです。
「従来の『毒性タンパク質理論』を再考する必要があるかもしれません」とノポロス博士は述べています。「HTT遺伝子は、初期の脳発達において優れた脳を作り上げる役割を担っています。しかし、その代償として、脳は長期的な持続性には適していないのかもしれません」。
この視点から、HD治療のアプローチも変わる可能性があります。単に遺伝子を抑制するのではなく、脳の老化プロセスを遅らせる薬剤が、より有効な治療法となる可能性が示唆されました。
今後の研究と次のステップ
ノポロス博士の研究チームは、Kids-JHD研究からさらに発展した「ChANGE-HD研究(Children to Adult Neurodevelopment in Gene-Expanded Huntington’s Disease)」を進めています。この多施設共同研究は、2019年に獲得した大規模助成金を活用し、1,200件以上の評価データを収集することで、Kids-JHD研究の主要な発見を検証し、ハンチントン病(HD)の研究をさらに推進することを目的としています。
今後の研究の主な焦点は、なぜ拡張した脳が最終的に神経変性を引き起こすのかを理解することです。その仮説の一つとして、ノポロス博士と研究チームは以下の可能性を検討しています。
「拡張した大脳皮質は、脳の発達初期には重要な神経伝達物質であるグルタミン酸を過剰に産生するかもしれません。しかし、これが後年になると神経毒性を引き起こし、脳の変性を加速させる可能性があります。」とノポロス博士は述べています。
本研究には、アイオワ大学のモヒット・ニーマ博士(Mohit Neema MD、研究主任・筆頭著者)、ジョーダン・シュルツ博士(Jordan Schultz PharmD, PhD)、ダグラス・ラングベーン博士(Douglas Langbehn MD, PhD)、エイミー・コンラッド博士(Amy Conrad, PhD)、エリック・エッピング博士(Eric Epping MD, PhD)、ヴィンセント・マグノッタ博士(Vincent Magnotta PhD)らが参加しています。
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