「嫌な記憶だけを消せたらいいのに」「忘れたくない大切な思い出を、もっと鮮明に残せたら……」。そんなSF映画のような話が、科学の力で現実味を帯びてきました。私たちの脳には、日々の経験を刻み込む「記憶痕跡(engram: エングラム)」と呼ばれる細胞の集まりが存在します。これまでの研究で、学習には後天的遺伝子制御(epigenetics: エピジェネティクス)、つまりDNAに化学的な「付せん」を貼ることで遺伝子の働きを調節する仕組みが関わっていることはわかっていました。しかし、「たった一つの遺伝子の付せんの状態を書き換えるだけで、記憶そのものを変えられるのか?」という大きな謎は残されたままでした。

スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)の後天的神経遺伝学(Laboratory of Neuroepigenetics)研究室を率いるヨハネス・グレフ博士(Johannes Gräff, PhD)のチームは、最新のゲノム編集技術(CRISPR: Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)とマウスのエングラム細胞を標識する技術を組み合わせ、この謎に挑みました。

 

記憶を操る「エピジェネティック・スイッチ」

ヨハネス・グレフ博士(Johannes Gräff, PhD)たちが注目したのは、ニューロン同士のつながりを調整する重要な遺伝子「アーク(Arc)」です。チームは、このアーク遺伝子の制御領域に狙いを定め、エピジェネティックな「スイッチ」を切り替えることで記憶が直接変化するかどうかを検証しました。

この画期的な研究成果は、2025年10月29日付の『Nature Genetics』誌に掲載されました。オープンアクセス記事のタイトルは、「Cell-Type- and Locus-Specific Epigenetic Editing Oof Memory Expression(記憶発現の細胞型および座位特異的なエピジェネティック編集)」です。また、これに付随して「Unlocking the Epigenetic Secrets of Memory(記憶のエピジェネティックな秘密を解き明かす)」という解説記事も公開されています。

 

記憶のボリュームを「上げる」「下げる」

研究チームは、クリスパー(CRISPR)を応用した特殊なツールを開発しました。一つは遺伝子の活性を抑えてDNAを閉じさせるツール(KRAB-MeCP2など)、もう一つは逆にDNAを開いて遺伝子をオンにするツールです。これらは、アーク遺伝子のための「エピジェネティック・スイッチ」として機能します。

科学者たちは無害なウイルスを使って、これらのツールをマウスの「海馬(記憶の形成と想起を司る脳領域)」に直接送り込みました。その後、マウスに特定の場所で軽い電気ショックを受ける学習をさせ、アーク遺伝子の状態を変化させることで、マウスがショックを覚えているかどうかを観察しました。また、編集を取り消して記憶の状態をリセットできる「安全スイッチ」も組み込まれました。

実験の結果、エングラム細胞内のアークをエピジェネティックに「オフ」にすると、マウスは学習内容を思い出せなくなりました。逆に「オン」にして活性化させると、記憶がより強化されたのです。驚くべきことに、これらの変化は同じ個体で元に戻すことができ、さらに通常は修正が難しい数日前の古い記憶でさえも書き換えることができました。分子レベルでも、遺伝子の働きやDNAの構造が、マウスの行動の変化と見事に一致していることが確認されました。

 

記憶制御の新たな扉

この研究は、記憶細胞内のエピジェネティックな状態を変化させることが、記憶の発現をコントロールするために「必要かつ十分である」ことを初めて直接証明したものです。この成果は、記憶がどのように保存され、変化していくのかを解明する新たな道を示しており、将来的に人間への応用も期待されます。

ヨハネス・グレフ博士は、将来的にはこのアプローチが、心的外傷後ストレス障害(PTSD: Post-Traumatic Stress Disorder)におけるトラウマ記憶や、依存症に関わる記憶、さらには認知症などの神経変性疾患で見られる記憶障害の理解を深める助けになると考えています。

本研究には、EPFLバイオインフォマティクス・コンピテンスセンターや、欧州研究会議(ERC: European Research Council)の助成を受けたSynapsy研究センターなども貢献しています。

 

Other Contributors

  • EPFL Bioinformatics Competence Center
  • EPFL Synapsy Research Center for Neuroscience and Mental Health

Funding

  • ERC Consolidator Grant
  • Swiss National Science Foundation (SNSF)
  • Chan Zuckerberg Initiative
  • Vallee Foundation
  • Synapsis Foundation Switzerland
  • Human Frontier Science Program (HFSP)

写真:ヨハネス・グレフ博士(Johannes Gräff, PhD)

[News release] [Nature Genetics article]

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