がんによる体重減少、「悪液質(あくえきしつ、cachexia)」はがん患者の約半数に生じる深刻な合併症であり、治療の継続を難しくし、生活の質を大きく損ないます。これまで悪液質を引き起こす生物学的な仕組みは十分に解明されていませんでした。しかし、メモリアル・スローン・ケタリングがんセンター(Memorial Sloan Kettering Cancer Center: MSK)の研究チームが、約6万人のがん患者の日常診療データを解析し、これまでで最大規模となる悪液質研究を実施しました。この研究成果は、2026年10月12日に『Nature Medicine』誌にオープンアクセスで掲載され、「A health-system-scale, episode-resolved multimodal atlas of cancer cachexia(医療システム規模のデータで解き明かす、エピソード解析によるがん悪液質の多モーダルアトラス)」と題されています。
体重計と血液検査が明かした、悪液質の知られざる実態
研究チームは、2010年から2024年にかけてMSKでMSK-IMPACTという遺伝子パネル検査(遺伝子解析)を受けた52,236人のがん患者の臨床ゲノムデータを再利用し、650以上のがん種にわたる悪液質の経過を解析しました。対象となったデータには、200万件を超える体重測定値と数百万件の血液検査結果、詳細な治療歴、腫瘍の遺伝子プロファイルが含まれています。
「これらの多くは、患者さんが治療のどの段階にいるかを把握するために日常的に収集されていた臨床情報です」と、本研究の責任著者であり、がん代謝研究にデータ解析を応用するレズニック研究室を率いるエド・レズニック博士(Ed Reznik, PhD)は述べています。「しかし、このデータには多くのことが語られていたのです」
悪液質は「エピソード」として繰り返し起こる
研究チームは、各患者の体重履歴から、6ヶ月間で5%以上の体重減少という悪液質の定義を満たす期間を探索しました。その結果、悪液質は単調に進行するのではなく、病状の進行と関連しながら、再発し得る「エピソード」として生じることが明らかになりました。大腸がんでは、病状進行イベントの約3分の1が悪液質の発生と同時期に起きており、肺がんや膵がんでも同様の傾向が確認されました。一方で、多くの悪液質エピソードは病状進行とは無関係に発生しており、他の要因も関与していることが示唆されています。
本研究の共同筆頭著者であり、MSKのブリッジ・プログラムのメンバーでもあるヴェニース・ジャン・カスティヨン(Venise Jan Castillon)は、「私たちはこの研究を『アトラス』と呼んでいます。がんの種類や病期を超えて成り立つ、悪液質のより広いパターンを見ることができたからです」と語っています。
ほぼすべてのがん種に共通する血液のサイン
研究のもう一つの重要な発見は、悪液質がほぼすべてのがん種において、血液検査(タンパク質解析)に一貫したパターンを残すことです。悪液質のエピソードには、アルブミン値の低下、ヘモグロビンおよび赤血球数の低下(貧血を示唆)、肝酵素の上昇、白血球・好中球数の上昇(炎症と栄養低下を示唆)という一貫した血清学的シグネチャーが伴うことが分かりました。
共同筆頭著者であり、ワイル・コーネル医科大学(Weill Cornell Medicine)でバイオインフォマティクスを専攻したエイミー・X・シー博士(Amy X. Xie, PhD)は、「アルブミン値は悪液質のエピソード中に低下しますが、多くの場合正常範囲内にとどまります。つまり、臨床医が意識的に注視していなければ、この変化は見過ごされてしまう可能性があるのです」と指摘しています。
腫瘍の遺伝子変異も悪液質リスクに関与
さらに研究チームは、特定の体細胞腫瘍変異が悪液質の発症リスクと関連していることを発見しました。がんで最も頻繁に変異する遺伝子の一つであるTP53の変異は、肺がん、乳がん、前立腺がんを含む9種類のがんにおいて悪液質リスクの上昇と関連していました。肺がんではSTK11変異も独立したリスク因子として、大腸がんではSMAD4・KRAS変異がリスクを高め、ARID1A・KMT2B変異が保護的に働くことが分かりました。これらの関連は、病期や全身状態を調整した後でも成立しており、腫瘍そのものの生物学的特性が関与していることを示しています。
将来の個別化医療へ:悪液質リスクの予測モデル
これらの知見を基に、研究チームは肺腺がんと大腸がんを対象に、腫瘍の遺伝子情報、病期、日常生活動作能力、ベースラインの体重を組み合わせた予測モデルを構築し、1年後・2年後・3年後の悪液質発症リスクを個別に算出できるようにしました。このモデルはダナファーバーがん研究所(Dana-Farber Cancer Institute)の独立した外部コホート(5,785人)で検証されています。予測精度は中程度ながら、ハイリスク患者を早期に特定し、栄養・リハビリ支援などの介入につなげる重要な一歩になるとみられています。
レズニック博士は、「これこそが私たちの目指す『悪液質のための精密医療試験』です」と、今後の展望を語っています。
